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相寄る魂
仁淀川木耳に寄せて

なぜか子どもの時から木耳が好き。だから私にとってはずっと身近な食材なだけでなく、なんとなく身体によいと思っていた。
最初のうちは横浜中華街などで買うことが多かったが、ふと国産の木耳もあるはずと思い、サイトを検索して見つけたのを購入していた。
そんなある日、フェイスブックで目に留まったのが福森淳司さんの投稿。
高知県仁淀川流域のビニールハウスで作られている木耳があるらしい。仁淀川といえば水質日本一として名高い。その環境にも惹かれたのだが、それにも増して福森さんの投稿から伝わってきたのは、あふれる木耳愛。直感に導かれるまま、乾燥木耳を取り寄せて使ってみて驚いた。今まで食べたどんな木耳よりも風味も食感も良い!続けて取り寄せた生木耳の美しさにも魅了された。

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一般に木耳といえば、八宝菜や餡かけ焼きそばの具材の一つ、それもそういえば入っていたわねという程度の認識だろう。しかし、仁淀川生まれのこれは一枚看板として充分に通用する主役級。といっても強く主張するわけではない。むしろ取り立てて味はないに等しいのだが、なんといってもゼラチン質がもたらす稀有のプルプル感が最大の特長。いいかえればどんな食材とも合うし、調理法を選ばない万能性を備えているのだ。事実、味噌汁やおでんなどの和風はもとより、サラダ、シチュー、ピザトーストなどにも大活躍。私の食卓に欠かせない食材となっていった。長く煮込むとほかの具材や出汁の旨味を吸ってより美味しくなるのも利点。次から次へとレシピが浮かぶ。


あらためて食品成分表で調べると、とんでもない栄養素の宝庫であることが分かった。同じ茸類に比べて、食物繊維、カルシウム、鉄分、ビタミンD,
葉酸などがずば抜けて多い。“なんとなく”が強力に裏付けられたわけだ。
その後、何度か取り寄せるうちに福森さんとの交流も深まり、東京のフェアの帰りにわざわざ鎌倉まで足を運んでくれた。ご紹介がてら隣町逗子の私の好きな中華レストランで食事をしながらじっくり話を聞くことができた。

福森さんは大阪在住。飲食店で包丁を握っていたが30歳でサラリーマンに転職。ご実家は奈良でご両親が長年野菜作りをしておられ、福森さん一家もその恩恵にあずかっていた。ふと、ここを利用して木耳を栽培してみようと思い立ったという。
なぜ木耳かというと、中国出身の夫人が毎日のように美味しい木耳料理を作ってくれて、身体によい事も実感していたからだ。
毎日食べてはいたけれど栽培となると話は別。あちこち視察するうちに、ひょんなことから高知県で木耳栽培に着手したばかりの人を知った。

(株)ツボイ代表取締役の藤原幸栄(こうえい)さんは、福森さんより25歳上でほとんど親子といっていい。私は会ったことがないけれど、藤原さんに惹かれた。なぜなら問わず語りの福森さんの言葉の端々から、藤原さんへのただならぬ尊敬の念を窺えたから。男が惚れ込む男ということだろう。

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いつしか、写真でしか知らない清流と藤原さんのイメージが重なって、仁淀川町は何が何でも行かねばならない場所となっていた。我ながら単純だが、事ほど左様に仁淀川木耳には、私をしてそう思わせるだけの説得力があったのだ。

この一文を書くにあたり、藤原さんに電話でインタビューした。
そこから知ったのは、予想どおり、いやそれ以上に素敵な物語……

藤原幸栄さんは1955年高知県生まれ。実家は長兄がフルーツトマト栽培に携わっていた。藤原さんは実家を離れ、証券会社の営業として東京を拠点に活躍。海外出張も多く、タイにも何回か訪れるうち、国会議員や大臣とも知己を得た。彼の国は発展途上国の例に漏れず貧富の差があり、教育の機会も均等ではない。専門知識や先端技術取得のための日本留学を夢見る優秀な子女も資金がないために断念せざるを得ない現状。それを目の当たりにし、留学の仲介を始めたのは生来子供好きだったからだという。藤原さんの尽力で日本へ留学を果たした子女はたくさんいらっしゃるそうだ。

そんな折、家業を支えていた兄が逝去。実家に戻ってもフルーツトマト栽培のノウハウもない藤原さんはやむなく断念した。前途を考えあぐねていた胸に去来するのは「子供たちのためになる食材を」という漠然とした想い。タイで体験した、機会を与えられたときの子供たちの喜びの笑顔が意識の底にあったであろうことは余人にも想像がつく。
各方面にアンテナを張るうちに知ったのが、とある大学教授。健康は薬に頼るだけでは得られないことを説き、おしなべて菌類は優れた健康食品であることも力説した。身体を造るのが食べ物であることは元より承知、意を強くした藤原さんがあらためて菌類の代表の茸を調べるうちに行き当たったのが木耳。おどろくべき栄養の宝庫だった。
ただちに、沖縄から山梨、新潟と津々浦々を見学して解ったことは、片手間で当たるがゆえに通年栽培ではないということ。安定供給のためには通年栽培でないと意味がない。なぜそう考えたかというと、栄養食品の優等生である木耳を高知県の学校給食で子供たちに食べさせたいという願いがあったからだ。

こうして着手したのは5年前。本格的に稼働したのはたった3年前だと聞いて驚いた。さらに、いまや高知県下の学校給食の95%をカバーしているというから仰天するばかり。もともと藤原さんには全国展開するつもりはなく、地元の子供たちの保健の一助になればという祈りから始まった事業。少しずつ全国にシェアが広がっているのは望外の喜びであった。これも広報に努めた福森さんあってのこと。福森さんは、むかし取った杵柄とばかり、毎日のように木耳を使った家庭のお惣菜を調理してSNSで発信し、一般的にはなじみの薄い食材への理解を促しているのだ。
またこれは福森さんから聞いた話。会社と栽培棟は車で往復3時間かかるそうだが、藤原さんは毎日欠かさず5時に栽培棟へ向かい、自分の目でチェックするとか。標高750メートルのこの地は、寒暖の差が激しく、清らかでミネラルたっぷりの仁淀川の水だけを存分に与えられ、木耳は健やかに育つ。栽培棟があるのは、高知県吾川郡仁淀川町寄合。約束の地と言っていいだろう。

さて、ここから先はまったくの私見。
私は料理季刊誌に長年携わってきたので、多くの食材や料理店を知る機会も多かった。その環境にあって密かに心に決めていたことは、可能な限り本当に心に響いたものだけを紹介しようということ。弱小誌という立場を逆手に取ったことになるだろうか。
仁淀川木耳がまさにそうで、最初はかなり原始的な直感だったが、知れば知るほど正しかったことが自分に証明された。
さらに、これからの企業の在り様についても示唆に富んでいる。企業はたしかに組織ではあるけれど結局は人。個人の志や想いが組織に浸透して動かし、製品に明確に顕われる。企業が己の会社の利潤だけを追求する時代は終わった。規模の大小にかかわらず、これからは社会貢献がキーワードになるはず。藤原さんが子供たちの健康を願い、地元に貢献したという実績はかならず未来を拓く。その証拠に、福森さんが藤原さんの手が回らない部分、すなわち販売促進を受け持って全国展開への兆しを見せている。さらに藤原さんのご長男が新たに経営に参画したという。そうなればいっそう継承のための利益も大切。そこへ次世代への祈りが籠められるとき、企業は無敵ではないだろうか。

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八巻元子(やまき もとこ)クラシ・ヲ・アソブ主宰
*1944年 和歌山県白浜生まれる
*1947年 神奈川県鎌倉市へ転居 現在に至る
*1997年『四季の味』にライターとして参加
*2001年『四季の味』編集長に就任
*2008年『四季の味』を退職
*2020年現在フリ^ランス
三男二女孫九人曾孫一人 父は『四季の味』初代編集長・森須滋郎

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